きっかけを大事にすればのちに役に立つ時もあるみたい

(過去の記事を読まないと内容が分からないと思われw)


時たま、駐屯地全体の朝礼があった。
並ぶ際は背の高い順なので、必然的に私は一番後ろ。
でも一番後ろが好きだった。先輩たちを後ろから見ると緑一色w
よーく見ると迷彩の中にミッキーマウスみたいな模様があったりで、朝礼中 一人で楽しんでいた。

 


隊員の声は基本デカいので壇上で誰か喋っても一番後ろの人にも声は届く。が、たまーに声の小さい人が壇上に立って喋る…。
全く言ってる事は聞こえないが、とりあえず敬礼だけはしておく。
で、後から先輩に内容だけ教えてもらうっていうのが全体朝礼の習慣だった。

 

(手を目の前で斜めにするやつだけを『敬礼』と思っている人がいるが、
帽子、鉄帽をかぶっている時だけみんなの知っているその敬礼であって、何もかぶっていないときの敬礼はおじぎです。)

 

 

全体朝礼が終わり、いきなり隣の班の班長に「○○(←私の名前)今日忙しい?これからドライブ行こうや!」と誘われ、わけも分からず車両のところに連れていかれた。
海上自衛隊行った事ないじゃろ?海自に用あるけぇ連れってたる」と楽しそうに用意してた。私だけでなく、同じ班のクールで無口な先輩も別の車に乗り始めて準備していた。

 


この隣の班の班長は私がこの駐屯地にくる少し前までイラクに派遣されていたそうで。
いろんな写真を見せてくれたり、おっかない話を聞かせてくれたりして、自衛隊の仕事のやりがいや、命の大事さを諭してくれた。
(『おっかない話』は書いていいか否かギリギリの内容なのでやめておきます。)

 

てか、うちの部隊は基本、災害派遣の際に必ずと言っていいほどそっこー(?)で派遣される。私はなんでこの部隊に配属されたんだろう…と不思議に思ったことがあるが、一つ思い当たることがある。
入隊試験の面接で「両親に心配なんてされていないので、どこへでも行けますね」と笑って答えた。たぶん、これ…?

 

 


海自に着いて、みんなで駐屯地内を歩いてたらイージス艦を見つけた。岸から少し離れたところにテレビでしか見たことなかったイージス艦が。
かなり興奮した。「ほー!デカいのー!カッコいいのー!」ってみんなで数分眺めた。
陸自にいれば、災害派遣等でよく見かけるプロペラ2こ付きの迷彩柄のヘリコプターには乗るけど、船にはそうそう乗らない。イージス艦に乗れる海自の人が羨ましい。

 


班長が「ちょっとその辺で待っとって。用事終わったら連絡するけぇ」と言い残し消えた。先輩たちも休憩がてらタバコを吸いに消えてしまい、暇だから駐屯地内散歩してたら門のところに繋がれてるシェパードがいた。
吼えられちゃうかな?とドキドキしつつ徐々に距離詰めていったら犬がしっぽ巻いて耳ピクピク動かして困ってたw
たぶんジリジリ近づく私が気持ち悪かったのかもw

でも優しく頭なでたらしっぽ振って喜んでくれて。
班長の用が済むまでずーっと犬をナデナデして癒されてた。
犬もナデナデされて、うっとりしてたよ。

 


一時間もしないうちに先輩と班長が迎えに来てくれて、来た道を海を眺めつつ帰った。


やっぱ田舎最高。

 

 

 

 


配属されて1年弱で、駐屯地内に後輩も増え、私もいつの間にか「先輩」と呼ばれる立場になったが、私は率先垂範なタイプではないので、先輩らしい事は何一つしていなかっただろう。
ゆるーい先輩と思われていたかもしれない。でも怖い先輩と思われるよりいーや。

 

駐屯地に来たばかりの頃はヤンキーと言われ他部隊の人から冷ややかな目で見られていたが、駐屯地内に知り合いも増え、珍しがられなくなった。

 

 

 

Y(←彼氏)とも関係は続いており、月に2~3回は会っていた。
「俺、連絡不精だけど…」と言ってた割には、毎日10通以上メールを送ってくれるし、電話もほぼ毎日していた。
喧嘩もそれなりにしたけど、彼はうまかった。先に上手に謝り私の怒りのガスを抜くんだ。付き合い始めの頃は冷たいイメージしかなかったYだが、時間が経つにつれだいぶ変わった。

  

 

 

12月上旬に山を4キロ全力ダッシュ武装走)して疲れた体のまま、先輩らと居酒屋行って、生牡蠣を食べたせいで(?)ノロウイルスにかかり、一週間寝込み、せっかくのYとの初クリスマスは病み上がり状態だった。

「体…大丈夫…?」とYはかなり不安そうだったけど「平気 平気」とごまかした。が、実はまだ微熱だった。

 

クリスマスプレゼントはお互い指輪を買って交換した。

 

しかし…1か月くらいで私が指輪をなくし、正直に「あちこち探したけど出てこない…」と白状した…。さすがに怒るだろう…と思ったが「またおそろいの買いに行こう」と優しく言ってくれた。
この時、Yと付き合ってよかったー!って思ったよね。ここまで優しい性格になったんだとびっくりした。

 

でもすぐに自分のバックから指輪が出てきたので、Yに「ごめん。指輪見つかった」と報告し、買いなおすことはなく指輪紛失事件終了。

 

 

 

自衛隊に入隊してから母は毎月私の通帳から何万円もお金を引き落としていた。
母は『生活費』や『姉の学費』を大義名分に振りかざし、悪びれる事なく引き落とす…。
私には「ついでに多めに引き落として、あんたの結婚費用貯金しといてあげる」と言っていたが、実際は貯金なんて一切していなく、自分の娯楽用に貯金していたんだと思う。
自衛隊を辞めた後も「金はらえ!」と高校の学費全額返せだのなんだの色々理由をつけて、ずっとお金をせびってきた。

 

で、結局母は男と遊びはじめ、美容代だの交際費だのに私のお金をあてていたんだと思う。
金がない!って騒ぐ割にはブランド物の財布を買ったりしていた。
母の金銭感覚がいかれてる。実際に金がなかったのは通帳から何万も消えてる私だった。

 

 

指輪をなくしたころからYには徐々に家庭の事情を話始めた。これで嫌われたら別れようと思ったが「俺は別に気にしてないけど」ってあっさり事情を受け入れてくれた。
優しい。

 

だが
ふとした時に、「お前…若干読解力ないな…」とYに指摘されたことがある。
確かに、小さいころから人と話すのが怖くて必要以上に人とは会話しなかったし、国語も楽しんで学ぶものではなく、母にぶっ飛ばされながら学ぶものだったので嫌いだった。


Yは東北の有名私立高校出身で頭はかなり良かったしYが自衛隊に入ったきっかけは両親が幹部自衛官だからで…私とは環境がいろいろ違って…。
正直Yにどう思われているか不安だったが、Yはその辺は何も気にしてはなかったようだ。


Yに読解力を指摘されてから少しずつ本を読む習慣をつけた。時間があれば小説だのエッセイだの読み漁った。それを見ていた自分の班の班長が「本好きなん?わし沢山本持っとるけぇ貸そうか?」といろいろ貸してくれた。
たぶんこのおかげで活字嫌いを克服できたんだと思う。
文章を読むのがそこまで苦ではなくなった気はする。

 

 


有り難いことに、今はフリーライターとしてWEBでコラムを書いている。
たぶんこの『読解力つけなきゃ…』っていう焦りのおかげかもしれない。昔は文字を書くのも読むのも嫌いだった。

 

きっかけを大事にすればのちに役に立つんだな…。

 

 

 

 


相変わらず剣道の訓練はキツくて日に日に体のアザの数は増えていった。

訓練を初めて1~2か月経った頃、松山(愛媛)に数日合宿行くことになりH(←同期女子)と喜んで参加した。

 

松山の駐屯地に着き、とりあえず道後温泉に行こうという話になり全員で出かけた。

 

脱衣所で全裸になって気付いた…。
体のアザが酷すぎる…。周りの女性陣にじろじろ見られた。DVされた人に見られたと思う。
Hと「うちら…アザやばいね。ジロジロ見られとる。処刑された気分よw」って話しながらもしっかり温泉に浸かって満喫した。

 

温泉をでたら男性陣は夜の街に消えて行った。
さすがにHと私は男性が行くような店には行けないし(行きたくもないし)、さて…どうしようかと話していたら同じ部隊の先輩二人が「一緒夕飯食べ行こうか」と誘ってくれて。

私にとって同じ部隊の先輩たちは完全保護者のような存在だった。

 

 

松山から帰ったころから剣道の時に左腰が痛むようになっていた。

 


痛みは気のせい…ってことにして続けたのがいけなかった。耐えられないくらい痛くなり一時、歩くのすら困難になった。
実は未だにトレーニングをすると左が少し痛む。

ストレスが溜まったり、疲れると左腰がじんわり痛む。

 


受診したら「軽いヘルニアですね。あまり激しい運動はしないように」と医師に言われたが、自衛隊なんて体が資本。腰のせいで剣道が出来なくなり、試合も見学になって面白くなかった。
山の訓練もしんどくなり、自分が情けくなってきた…。

 

見るに見かねたのか、Yが「そろそろ結婚しようか」と言ってくれた。「自衛隊辞めてお嫁さんになって下さい」と。


でもこの婚約がきっかけで、母の怒りが再発し、Yも巻き添えにしてしまった。

 

 

 

Yがいたおかげで私は自衛隊を頑張れたんだと思う。彼にはいろいろ支えてもらった。

 

 

 

『恋することも大事なんだよ』って冷めた目で何に対しても無関心な今の私に教えてあげたい。