母にどう謝ればいいか…正解がわかりませんでした。

物心ついたころから体によくアザが出来ていた。

 

母は『躾』と『虐待』の区別が出来なかったんだ……と思いたいが虐待とわかっていながら『躾』ってことにしていたのかもしれない。

 


幼稚園に入るまで毎日ように母のパチンコに付き合っていた。
母がパチンコをしている間、私は店内をフラフラ散歩したり、空いてる台の椅子に座り持参のぬいぐるみで遊んでいた。


他の台でパチンコをしているおっちゃんに「飴いるか?」と気を遣ってもらったが
母に知らない人からモノをもらってはいけないと躾られていたので、「んーん。いらない」と、欲しかったがお断りしていた。たぶん3歳とか4歳のとき。

 


今になってふと思うのだが、もしかしたら父は母が日中パチンコをしてるのを知らなかったんじゃないのか…。


ただその頃(だけ)家がそれなりに裕福で家計は完全母が管理していたから、父にバレていないだけだったのかもしれない。

 


母も凄い。
小さい子をあんなうるさいパチンコ屋に連れていくなんて。


パチンコ屋の異様なタバコ臭さと耳をつんざくような爆音は未だに嫌いだ。

 


パチンコは嫌いだったが、パチンコ帰りに母がよくミスドに連れて行ってくれたので、タバコ臭さも耳をつんざくような爆音も我慢できた。

 


母がパチンコしている間『はやくミスドいきたいなぁ♪』って一人ワクワクしながら時間をつぶしていた記憶がある。

 

 

好きなドーナツ一つとオレンジジュースを買ってもらえるのがその時は嬉しかった。

 

母と一緒に食べてから帰宅。幸せだったね。

 

 

 

 

 

いつの頃からだろうか、
徐々に私に対する躾がエスカレートしていった。


小学校に入れば嫌でも足し算や引き算、ひらがな、カタカナは習うのに、無理やり母に教え込まれた。

 

近所に『公文式』に通っている同い年の女の子がいたからだ。
その子の母親に、うちの母が勝手に対抗心(敵対心?)を抱いたのだろう。

今思えば迷惑な話だ。

 


実はその公文式に通ってた子とは幼稚園が一緒になり毎日遊ぶほど仲よくなった。
けど卒園後、小学校が別々になってしまい、のちに私も地元から離れてしまって全く会えなくなった。

 

でも高校生の時、その子が電話をかけてきてくれて久々声を聞くことが出来た。
お互い幼稚園の時の幼い声と違ったので笑った。
「かなりお久しぶりw元気しよっと?」ってその子の訛りにホッとしつつ何喋ればいいか緊張した。

 
その子は小さい頃から『公文式』なだけあって頭のいい私立高に通っていたな。

 


で、話ずれたけど

 

 

楽しく教えてくれれば幼い私だってすんなり頭に入ったかもしれない。
だが母はスパルタ過ぎた。答えを間違えればおもいっきり叩く。

 

母の機嫌が悪いときは叩くに加え殴られて蹴られる。

 

泣く力も無くなり、ぐったりしても「なんでこんなのも分からないんだ!」と罵声を浴びせられ、私に馬乗りになって殴ってくる母の目が怖かった。
怒り狂った母の顔は至近距離で見られたものではない。

 

 

躾というかストレス発散をしていたんだと思う。

 

幼い子供の抵抗力は無力に等しい。


抵抗しようしたり、よけようとすると「なによけようとしてんだよ!」と更に殴られた。ただただ「お母さんごめんなさい…ごめんなさい…」と殴られながら力なく謝るしかなかった。

 


おかげで周りの子がまだひらがなが読めない状態なのに、既に私は絵本がすらすら読めていた。先生に「すごいね~。もうひらがな読めるんだね?」と褒められたが、何も心に響かなかった。

 

 

『何かあると大人に叩かれる』とでも思っていたのかあんまり先生に甘えなかった。そもそも先生に寄り付きもしなかった気がする。
大人に思う存分甘えられる時期に、甘え下手とか…勿体ないなかったなーと思う。

 

もっと甘えて、もっと可愛がってもらえばよかった…。

 

 

卒園式の時、先生からのメッセージカードの最後の一文に「もっとあまえてください」と書いてあったのが今でも忘れられない。

 

 

 


でも母はいつも怖いわけじゃない。優しい日もあった。
私が寝付くまで優しく頭を撫でてくれたり、私の為に可愛い生地でワンピースをつくってくれたり。母親らしいこともちゃんとしてくれた。

 

 

だが一度怒りのスイッチが入ると何が起こるかわからない。
キッチンから包丁を持ってきて、刃先を私に向け「一緒に死んでやろうか?」と怒鳴ったり、コンロの火をつけ、私の手をその火の上にもっていき火傷未遂をさせたり。

 

今思えば重度のメンヘラだったのかもしれない。精神的におかしかったんだ。

 


事実、20年後に精神科のカギ付病室に母は閉じ込められるんだけどね。
母もまさか閉じ込められるなんて、この時は思ってなかっただろう。

 


小学校に入って母のスパルタは更にきつくなった。
宿題が地獄だった。
国語の音読の宿題、読み間違っただけで引っ叩かれた。
ひどいときには私の首を絞めながら「なんでこんなのを読み間違えるんだ!集中して読め!最初から読み直せ!」と怒鳴っていた。

 


毎日怒鳴れる母のエネルギーはどこからわいてきたんだろうか?不思議。

 

叩かれたり殴られたりで体の所々にアザができていた。
そのせいで小学校入学当初からいじめられた。しかも男子に2人に。


モノが無くなったり、机に落書きされていたり、叩かれたりは日常茶飯事だった。
でも先生にそのことは言えなかった。先生に言えば母に話がいく事は小学1年生の頭でも予測はついた。

 


私がいじめられてる事に対し、母が実際に心配するかしないかは分からないが、そのころは母にバレたくなかった。母に心配をかけてはいけないと子供ながらに気を遣っていた。


だから男子からのいじめに黙って耐えてしまってた。

 


家でスパルタ、学校でいじめ。
汚い話、小学1年生なのに便が真っ白だった…。毎朝トイレで腹に力を入れると声も出ないくらい腹に激痛がはしったが「お腹が痛い」なんて口が裂けても言えなかった。
だが、のちに自力で排便ができなくなり、下腹がパンパンに張って病院に連れていかれた。

 

 

学校の勉強だけでは母的に満足いかなかったのか、通信教育もさせられた。結構勉強漬けの毎日だった気がする。
その甲斐あってか成績はかなりよかった(らしい)

 


全国模試も普通に満点で全国1位。それを母に褒めてもらいたかった。
一度でいいからちゃんと褒めてもらいたかった。

さすがに1位なら「頑張ったね!」や「すごいじゃん!」って言葉をかけてもらえるだろうと期待した。


けど『なんて褒めてもらえるかな…』とちょっとワクワクした私の気持ちは母の「へー」って軽い言葉で一気に消えた…。

 


子供は親しか頼る人がいない。

その親に叩かれたり、そっけなくされ不安で不安でしょうがなかった。

 

 

今思えば母も可哀想な人だった。

 


父は仕事人間で全く家庭をかえりみなかった。

 

母は母なりにストレスを溜めていたんだと思う。


専業主婦で一日中、家事育児。父には全く構ってもらえず、その寂しさがストレスになっていたのかもしれない。

 


私が大人になってからだが、母と不倫相手の会話を盗み聞ぎして知った事がある。
そのころ母は父に多額な保険金をかけ父の死を願っていた。
確かに、出張で父が飛行機に乗るたび、「飛行機事故で死なないかなー」とつぶやいていたのは小さい頃の記憶として残っている。

 

切なくなる……。

 

 


父と母の仲直りの潤滑剤としても利用された。

 

朝から母と大喧嘩をして父は仕事に行った。

母は私に「ちゃんと帰ってこいとお父さんに伝えてこい。伝えるまで帰ってくんな!」と言って家から締め出した。
今の私なら「はぁ?自分で行けや!」って言い返せるが、従順だった幼い私は言い返せなかった。

 

一生懸命走って父を追いかけたが、小さい私が走ったって大人の急ぎ足になんかになかなか追いつかない。

 

 

電車に乗ろうとしてる父が視界に入ったので、その場で立ち止まり叫んだ。
父も道路越しに泣きながら叫んでる私に気付いた。

が、
こっちを数秒じっと見て、電車に乗ってしまった…。


もしかしたら帰って来ないのかな…?と不安になったが
その夜、父がケーキを買って帰ってきてくれた。

 


母の機嫌もよくなったのでホッとした…。

 

 

 

 


毎日そんな感じの日々。

 

 

母のストレスが溜まるにつれ、躾なのか虐待なのかわからない行為はより一層過激に。

 

 

私が何か悪いことをしたらしく、私の夕飯が廊下に用意された。
「そこで正座をして食え」と言われたが、さすがに廊下では食欲なんて湧かない…。
食事に手を付けず、自分の部屋に戻ろうとしたら、母がおっかない形相で近づいてきて、おもいっきし私の頬を引っ叩いた。勢いがすごすぎて少し吹っ飛んで倒れた。
「なんで食わないんだ!作ってやったんだ全部食え!」と…。


そのあとも何発か殴られたが…実はそのあとの記憶がない。気絶でもしたのか私は?

 


他にも

真冬の夜、母にいきなり髪をバッサリ切られ、靴下のまま外に放置されたことがある。
普通に外にポイって出された…。

 

寒くて玄関の門の隅っこでうずくまってた。


どれくらい時間が経った後だろうか、
母が家から出てきて「反省したのか?」と聞いてきた。
何について叱られてたのか正直わからなかったが、寒くて死にそうだったので「はい…」と言って家に入れてもらった。
家に入り、ゴミ箱に押し込まれている自分の髪の毛を見て『そうだ…さっき髪切られたんだ』と思いだして泣いた。

 


母の機嫌のいい時と悪いときの差が激しすぎて怖かった。


いきなり怒りのスイッチが入るから、予測不能

 


母の不安定な機嫌も嫌だったが父の仕事の関係で2~3年に一度転校しなきゃいけないのも嫌だった。小学校はトータル3校通った。

 

友達が出来てもすぐに転校で、親友と呼べる子はいないし、
高学年になるにつれ友達を一から作るのが面倒臭くて、自分からクラスの子に話しかけることは無かった。

 



運悪く小6の時に引っ越したので卒業アルバムを見ても知らない人ばっか。面白くない。アルバムに私はほとんど写ってない…。


流し見してすぐ机の下の棚に押し込んだ。

 

 

 

小学校を卒業し、母の身長を抜いてからは叩かれたり殴られたりは若干緩くなった気はする。

 


ただ一つ。

 

いじめられたせいで男子が苦手になった。
高校を卒業するまで男子に恋をすることはなかった。

 

 

今だからこうやって淡々と書けるけど、昔は毎日最悪だった。


確かに子供を育てるのって大変だと思う。


けど必要以上に叩いても子供に良い悪いの分別なんてつくわけない。
叩いたところで理解なんてできない。怒鳴られたら、恐怖で親の言葉なんて頭に入ってこない。
いろいろ経験しないと物事なんて分かんない。


てか
少しは自由にさせてほしかった。


「なんで分かんないの!」って叫んで子供を叩いても、親が子供の気持ちをちゃんと理解しようとしない限り、子供は親の気持ちなんて到底理解できないと思う。

 

結局私は母に何をすればよかったのだろうか?

正解はなんだったんだ? 未だにわかんない。