大事なものを失った時、すべてを失ったような感覚に襲われる。

(8/10の記事から読まないと分からないです)

あの二年間は本当に濃かった。


大事なことは家族ではなく部隊で教えてもらったと思う。
もう一回先輩や班長と逢いたいな

 

 

最後の日、皆に挨拶をした時泣きそうになった。
今まで悲しいときに泣いた事はそうそうない。私が泣くときはだいたい悔しいときだ。

 


自衛隊に入るまで生まれてこなきゃよかったと考えた事がある。自殺までは考えたことはないが生まれた事は後悔した。子供は親を選べない。

実は生まれた時 私は死んでいたので(死産だったらしい)、そのまま霊安室に運んでくれれば母からあんなに叩かれたり殴られたりする生活はなかった。
でもいつも、なぜか死に際ぎりぎりで生き返る。生命力はゴキブリに勝るようで。
私は蘇生したが 母は私を出産後 体調がよくなく、私は母の妹に引き取られる予定だった。

だが、引き取られる話もいつの間にか消え…母に18歳になるまで生かしてもらった。

 


みんなに見送られて自衛隊の門を出て、
新幹線に乗っている時にYから「今までお疲れ様でした。これからもよろしくお願いします」とメールが届き、泣くの我慢していたのに結局泣いた

そのあとも先輩や同期、後輩からメールが届き温かい気持ちになった。


この温かい気持ちも実家に着いた瞬間消えてしまった…。
相変わらずの両親で…。

  


父は未だに働いておらず、いつの間にか糖尿病になってた。
母は前に増して精神的におかしくなっており、アルコール中毒にもなってた。帰宅してそうそう母に「自衛隊辞めたからってタダで実家に住めると思うなよ!」と言葉で刺された。
そもそも私自身、争い事が嫌いなので、だいたい「はい」で済ませていた。

毎晩飲んでは私を怒鳴り…。殴ってこようとする。

 

 

母はパートが忙しいのか家事もろくにしないようになっていた。洗濯後の衣類が床にポイとおいてあって嫌になった…。

自衛隊で毎日アイロンがけをしていたので、いつのまにか母よりもアイロンがうまくなっており、
母のアイロンがけの下手さにがっかりして…先に全部してしまっていた。

 

 

 

自衛隊を辞めて少しした頃、Yの東北の実家に挨拶にいった。Yの両親はすごく優しくて…幸せそうな家族だった。
Yの弟と初めて会ったのだが、Yにそっくりすぎて笑ったw
夕飯食べながらYとYの家族と一緒にお酒飲みつつ、いろいろ話してホッコリした


なんで他の家の両親はこんなにも優しいんだろうか…。小さいころからの謎。幼稚園の時も学生の時も友達の家に遊びに行くと優しそうな友達のお母さんが居て…うらやましかった。

 

 

Yも長期の休みをつかい果敢にも家に挨拶に来た。
無職の父はYに偉そうなことを言って、母もたいして気を遣ってあげず、可哀想な思いをさせてしまった…。


『私はなんでこんな両親の為に働いていたんだろうか…?』と、私のイライラも限界に達し、
父に「いい加減働いてくれ」と言ったら、口論になり、父にぶっ飛ばされ首をおもいっきり絞められた。
意識が遠のくのが分かった…。あーもう死ぬわって思った時、他の部屋にいた母とYが気づき止めに来てくれた。
首から父の腕が離れた瞬間、私は靴も履かないまま家を飛び出した。


ね、いつもぎりぎりで死なない。

 

 

家を出て何分経っただろうか
マンションの廊下でしゃがんで泣いていたらYが探しにきてくれ「もう大丈夫だから…家に戻ろ」って私の手を引いて家に連れて行ってくれた。
父と口論になった際私の顔に傷が出来てしまい、寝ている時、Yが泣いてる私の顔の傷をなでたり…頭をなでたり…。

自分の親が情けなさすぎて心底嫌になった。
「(俺の居る)駐屯地の近くに早めに家借りるからそこで一緒住もう。ここに○○(←私の名前)置いておくのが不安…」って…

私はいつもYを心配させてばっかりだった…

 


首を絞められた日から私は父と口をきいてない。
なぜか最近誕生日に父からおめでとうメールが届くが「ありがとうございます」と定型文みたいな感情のない文で返信している。

 


ここ数年、両親はたまーに関西の姉の家に孫を見に行っているらしい。
その際、姉に「○○(←私の名前)はいつ結婚するんだろうか?」と今頃になって心配になったのか余計な事を聞いているようだ。
連絡すら取りたくないので親の心配なんてもうどーでもいい。ほっといてくれ…。勝手に東京でいい人見つけてひっそりくらします。報告するつもりはありません。

 

 




でも
Yと結局別れたんだ。




Yと同棲数週間前にあっけなく別れた。


Yが駐屯地近くに家を借りてくれていたんだが、Yもいろいろストレスが溜まってしまっていたのかもしれない、
同棲前に些細な喧嘩をしてしまい、その際Yに別れたいと言われた…。

親の事も少し言われてしまった…。親の事を言われてしまえばもう何も言えない。ごめんしか言えない。
同棲数週間前に些細な喧嘩で別れたいという男性と結婚しても、もしかして続かないのでは…と不安もよぎり、追いかけることなく、すんなり別れを受け入れた。

 

そこから数日ずーっと泣いた。その後数日はボーっとした。
付き合っていた2年ちょいが夢だったんではないかってくらいあっけなく終わってしまって



失ったのはYだけなはずなのに、全部失ったような不思議な感覚で。

 

 


でも悲しんでる暇はなく
その後はバイトに明け暮れた、母に金をせびられていたので。

 


このころくらいから母は不倫を始めた。
昼間のバイトだけでは貯金もできず、家に帰っても母は不倫相手と一緒にいるので帰りづらくキャバクラのバイトをはじめた。
この昼のバイトで出会った同い年の女の子とは今でも連絡を取ってる。

キャバクラは楽しかった、みんな優しい女の子ばかり。
ただお客さんは面倒臭くて、体触ろうとしてきたり、休みの日に外で会おうだのうるさいし、
いくら出せばヤらせてくれるの?だの、付き合ってだの…。

 

もー無理難題です。

 

キャバクラの姉ちゃんに変にはまってしまうお前と付き合う程、人生あまくなかったんだよと…お客さんに言いそうだった。
キャバクラの友達は最高だったのにやっぱりお客さんが嫌過ぎるし、両親と同じ家で暮らすのも嫌である程度貯金したら独り暮らししてキャバクラは辞めようと決めた。

 

程よく貯金もたまったころ実家から離れ、独り暮らしを始めた。キャバクラもやめた。
その後はBarで働いた。そこのBarはポールダンスだのレゲエダンスだのShowのある飲み屋。そこのBarのオーナーの趣味でバカラテーブルが置いてありオシャレなBarだった。
ポールダンサーにポールダンスを教えてもらい下着のような衣装で一時踊っていた。まだ自衛隊をやめてそんなに時間もたってないから腕や足の力が衰えてなく、アザは出来るが楽しかった。


お客さんが衣装の間にチップを入れてくれたので、終わった後更衣室で衣装を脱ぐと縦折にされたチップがボトボト落ちる。有り難い。生活費の足しにしていた。


だがバカラテーブルでコインで遊んでいるお客さんのほうが楽しそうに見え、途中からバカラが出来る人にルールを教えてもらい、お客さんにお酒を貰いつつディーラーをしていた。
実際にお金をかけるものではなく、ただのコインゲームだった。

 


この時が一番フラフラしていたかもな。

スピリタスを数杯飲んでは店の端っこで痙攣しながら寝ていたり。

今思えば恐ろしい毎日だ。




キャバクラの時の20代前半の関西在住のお客さんが私に惚れこんでくれたらしく私の住んでる県に引っ越してきた…。いい迷惑だ。
手もつないだことのない女の傍に居たいがために引っ越すとか…どんだけ幸せ脳だよと思ったよね。
ただ彼は顔がキレイだったので「ホストしたら絶対No.1になれるよー」と、彼に『ホストで働こうかな…?俺むいているんじゃないか…』というやる気を出させ、本当にホストに送り込んだ。
で、本当にNo.1になりススキノの本店に転勤になった。


 

男性が面倒臭くて言い寄られても塩対応だった。



友達の彼氏君がしつこく毎晩電話してきて、でも友達はそのこと知らなくて…、正直、不倫や浮気をする人はアンチなのでそっこー着拒した。友達が可哀想になってしまった。あんな彼氏と付き合ってんの…?
友達の事を思って、このことを言うべきか言わないべきか迷ったが…言わなかった。

 

 


で、
働いていたこのBarで次の彼氏に出会った。

オーナーの知り合いの社長さんが会社の人たちを連れて飲みに来た。
その中に色白のキレイな顔をした男性がいた。(以下「T」)
でも私、色白の王子様系の男性は全くタイプではない。なのに何故か気になった。
彼はBarを出る際私に「今度一緒にごはん行かない?」と連絡先を聞いてきた。
その時はタダ飯が食べられるならまぁいいかと簡単に連絡先を教えた。

 


後日彼がバツイチだと知ったんだが、今ではバツイチと聞いても「バツの1コくらい勲章だ」と言えるが、ハタチそこそこの私にはバツイチって言葉はキツかったな。

 


私が東京に来たきっかけはTと知り合ったからだ。

ここから約5年間突っ走る。