マイナスがあるからプラスに気付くのかもしれない

(注意:過去のブログを読まないときっと内容が分からないと思われます…)

 

後期教育も程よくかったるく感じ始めた頃、何を思ったのか、私、髪の毛をブリーチしました。茶色以上、金色未満に。
自衛官にあるまじき行為。反省しています。)

 

てか、ストレス発散の方法は他にもあったでしょ!と言いたいが、なぜかこの時はこれしか思いつかなかった。乏しい思考だとこれしか思い浮かばないらしい。


眉細いし、髪派手だし、目つき悪いしで他部隊の人からは冷めたい目で見られた。
でもそれで良かった。
正直、変にかまわれるくらいなら完全放っておいてほしかった。

悪口も好きなだけどーぞ。

 


さすがに班長には怒られるかな…?と思ったが、いい具合に力の抜けている女班長自体、髪を茶色に染めていたので、たいして何も言われなかった。
だが見た目のせいで外部の者と勘違いされ、駐屯地の門で何度か足止めをくらった事はある。

 

 

毎日のようにA香やN美に虐げられたが、自衛隊を辞めようなんて気持ちは一切湧いてこず、さっさと後期教育終われ!って祈っていた。
姉の学費等、いろいろあるから辞められなかったし、ここで辞めたら今まで頑張った事がすべて水の泡だ…と思ったら意地でも辞められなかった。

私は負けず嫌いではない。むしろ他人に負けても平気だ。もともと勝負気質ではなく、どちらかといえばマイペース。
誰かに負けてもいい。けど蓄積したことが無駄になってしまうのが嫌なんだ…。

 

 

 

 

 

いつの頃からだろうか、周りの隊員が誰もYの事を「女癖が悪い」と言わなくなった。
Yは休みの日、男友達と飲むか、私と出かけるかになってた。


後になってYから聞いたんだが、区隊長に屋上に呼び出され、女性隊員を弄んだとぶっ飛ばされた時、Yは本気で自衛隊を辞めようと思ったらしい(弱っ)


だが、嫌なことされているのに何食わぬ顔で毎日やり過ごしている私を一人残すのが心配で辞職できなかったようだ。
さすがに自分のせいで悪口を言われている私をおいては辞められなかったらしい。
Yに何度か「ごめんなぁ」と謝られたことがあったが、私が謝ってほしかった相手はYではなく、アノ女2人と男班長だった。

 

 


いろいろあったけど、珍しい事もたくさん学べて良かったと思う。

 


昔から勉強嫌いではなかったが、自衛隊の勉強が特殊過ぎて、なかなか頭に入らなく、腹が立った。
災害派遣などで使用する特殊車両の使い方の冊子をドサッと渡され、実際に車両をいじりながら教官が教えてくれるのだが…難しい…。
『こんな言葉日常生活で使わんわ…』って言葉が冊子にズラーと並んでて…それを丸暗記しなければいけない。
確かに他の隊員よりも階級が上がるのが早い分、さっさと知識詰め込まないと追いつかないのは分かるが、量が多い。
毎回『丸暗記』に追い込まれる授業のおかげか、暗記力はそれなりによくなった(気はした)。

 

 

 

 

「2週間後に試験会場に行って危険物取り扱い(乙4)の試験を受けてもらうから」と班長から全員に過去問5年分とテキストが渡された。
文系育ちの私には化学式だの見知らぬカタカナだの、初めての文字ばかりで苦しかった。


その頃たまたま車両の何かのテストで悪い点を取ってしまい、やり直しのレポート的なのを書いて提出しなければならず、危険物の試験勉強なんてしている暇はなかった。
悪い点を取ってしまった自分が悪いのだが、もうちょい早く過去問渡せよ!って思ったよね…。
訓練の合間にレポートを書いていたから、なかなか危険物の試験勉強に手を付けれず、時間ばかりが過ぎてしまって…。


一応、危険物の試験のポイントを教官が話してくれたのだが…理解が困難だった。

 

試験の前日、さすがに勉強しないとやばいと思い、消灯後、朝6時までトイレに籠って過去問とテキストを暗記した…。(←トイレは夜中でも電気がついているから。)
後にも先にもトイレに7時間籠ったのはこの時だけだね。

 


合格率は知らないが、無事合格した。
これ落ちたら恥ずかしかったな。

 

 

 
肌寒くなった頃、またいつもの如く富士に訓練しに行ったんだが、この時は他部隊と合同訓練だった。
天気もよく、日中はポカポカ暖かかったが、秋の富士の夜が死ぬほど寒いのは知らなかった…。
完全薄着だった為、本当に凍死しかけた。人生で数回死にかけたうちの一回がこの富士山。


人は死ぬ間際、三途の川をみると言うが、本当に三途の川はあった。

 

夜中の訓練で車両の横で銃を構えてしゃがんでる時、寒さと眠気で意識が朦朧としてしまい、たまたま目の前を通りかかった他部隊の人が「大丈夫か?」と心配をしてくれてホッカイロをくれた。
だが、カイロだけでは体は温かくならず、寒さと眠気に耐えられなくなり…意識が飛んだ…。

 

しゃがんだまま、ふと顔を横に向けると自分の数メーター先に流れの早い川があり、向こう岸に一生懸命渡っていく人影が…。
その人影はたまに立ち止まって、こちらを振り返り、また歩き出す…。
『あーこんな寒いのに誰かが川を渡ってるわ…』と思った瞬間、おもいっきり頬に激痛が走って目がさめた。
班長の先輩が私の名前を叫んでた。


頬の痛みは先輩に足で蹴られたか、手で引っ叩かれたかだろう。

「大丈夫か!」といきなり手を引っ張られ歩かされたが既に足に感覚がなかった。
天幕(テント)の中にストーブがあり、ギリギリまで近づいて冷えきった体を温めたら徐々に意識がはっきりしてきて『そういえばさっきの川は何だったんだろう…』と気になり、さっきの場所まで歩いて見に行ったが川なんてなかった…。

 

あー、俗にいう三途の川か…
もうちょいで私も向こう側だったのかな?

 

凍死しなくてよかったー。

 

 

 

 

秋の富士山の夜はめちゃめちゃ寒いけど、その代わり星が超キレイで。周りに灯りがないから細かい星までよく見える。あんなにキレイな星空は富士山でしか見られないんじゃないかと思う。訓練はきつかったけど星空がキレイだから なんか頑張れた。


自然ってすごいなー。宇宙ってどうなってるんだろーって感心しながら星空ばっかりみてた。


自衛隊の仕事は『3K』(汚い・危険・きつい)と言われるが、
代償として…ではないが、一般の人がなかなか見られないキレイな景色を見ることができる。個人的にそれは特権だと思ってる。

 

 

 

 

11月末、4か月の後期教育も終わり、やっと居心地の悪い空間から解放される!という喜びと同時に残念なことが一つ…。
私の配属先が中国地方で、Yが近畿地方だった。遠距離ではないが程よく離れてしまった。

 

異動の日、Yと一緒に新幹線に乗って、後期教育からやっと解放されたねって話と、これからうちらどうする?って話を2時間ほどした。
「月に1~2回は会おう、俺、連絡不精だけど連絡ちゃんとするから」って言ってくれて。新大阪でYが私の頭ポンポンして先に降りて行った。

 

これから知らない駐屯地に一人ポツンと入るわけだが、小さい頃、転勤族だったため新しい環境に一人で行くことには慣れてたし、行く場所も未知のところではなく『駐屯地』なので心細さはなかった。

 


新幹線に一人残され、いろいろ思い出すと腹ただしいことも沢山あったが、結局いい思い出なのかもしれない、と懐かしくて…。
人間として成長できたかどうかは自分では分からないが、確実に我慢強くなった。

 

 

駅に着き、改札を出たら配属先の隊員の方が迎えてくれた。
車で駐屯地まで連れて行ってもらい、部隊の人に挨拶をして、同じ部屋になる先輩に部屋まで連れて行ってもらった。


ドアを開け、広めの部屋に色白のキレイな子がいた。(以下「H」)


自衛隊はただでさえ女子が少ないのに、ラッキーなことにHは私と同じ年だった。Hは優しい子ですぐ仲良くなれた。
Hとは部隊が同じでも班が違ったので、朝礼と夕礼以外あまり顔を合わせることはなかったが、たまに仕事が一緒になる時があったので、その時は思う存分喋った。
昼ご飯も時間が合えば一緒に食べたし、課業後もテレビ見ながら喋ったりで楽しかった。

 

この年、この駐屯地内で金の桜のバッジをつけているは私だけだったらしく、いろんな人に珍しがられたが、変な目で見られるのは後期教育で慣れていたので平気だった。
ただ、髪の毛が明るいままだったので、他部隊の人からは「ヤンキー」呼ばわりされたw(…すいません)

 

後期教育がしんどかった分、配属先の部隊が天国に感じた。みんな優しいし、お兄ちゃんが一気にできた感じで楽しかった。

 

 

前期 後期の8か月間、精神的、肉体的にキツかったが、それで良かったのかもしれない。「人生一度しかないんだから、やりたい事をしろ」と言う人も多々いるが、やりたくないことや、キツい事がないと本当にやりたい事が見つからないし、楽しさや幸せに気付けないのかもしれない。
マイナスな事があるからプラスな事が際立つわけであって。

ずっと楽しい人生なんてつまらない…。
ずっと楽しいと、それが日常になってしまい、それが楽しい事かどうかも気付けない。
やっぱり嫌な事もあるから、些細な事でも楽しいと思えたり、幸せと思えたりするのかもしれない。
幸せを感じたきゃぁ苦労しろってことですよ。